帯石山普門寺 歴史と宝物
略年表

和  歴

西  暦

     記                    事 

弘仁 二
    
    
    
貞元 二
    
元弘 三    
    


正平 六
    

文明 七

慶長


慶安 二

寛文 三
   

   十

宝永

享保十九

寛延 三



文化 十

天保十二

  十三

慶応 二

明治 二
    

明治 四
    
    

昭和五四

平成 九

平成十九
 

 811
    
    
    
 978
    
1333    
    


1351
    

1475




1648

1663


1670



1734

1750



1810

1841

1842

1866

1869
    

1871
    
    

1979

1997

2007
 

普門寺創建。弘法大師、帯石に六文字を自筆、入魂帯石菩薩とし、観音堂に千手観音、脇士として不動、毘沙門の三尊を自手彫刻、安置されたのを普門寺の創始とする。真言宗。          
                        
このころ、普門寺、天台宗となる。     

千種忠顕、後醍醐天皇を漁船に奉じ隠岐を脱出し伯耆の名和長年を頼り船上山に行在を構える。普門寺家紋は、菊水。                      当地が、南朝方の領地となる。このころ、法華経八巻が奉納されたか。

大内二十四代 大内弘世 周防長門守護職となる。
大内弘世「周防三十三観音」を勧請。帯石観音四番

当寺開山西湖良景大和尚、禅宗に改宗。

毛利藩より九町七反の山林を奉納。
輝元公も関ヶ原の戦いの武運長久祈願で参籠されたと伝えられる。

普門寺火難。禅僧賢幸再建。(「上梁記」)

三月五日豊後国 久留嶋主膳、地家室で破船。
六世寿三和尚引導焼香。

六世寿三和尚、西安下庄に泰嶽山加水寺を創建。

このころ、智禅上座が加水寺本堂建立

梅園和尚「堂と殿と雲堂」建立(「上梁記」)

「寺社由来」筆者は十世霊峰大樹和尚。
大樹和尚、五月、五十六段の石段、石垣を完成する。
大石が五つあったのを利用した。

このころ土居の名月上人帯石に上山。

「防長注進案」成立。

加水寺本堂庫裏建立。実明和尚。

六月十五日、四境戦役の為、普門寺二宇焼失。

「九月仮に一宇を葺き釈迦牟尼仏並びに観音菩薩の両本尊を安置」仮堂と茶堂建築。

五月廿七日観音堂は、帯石に残し置く許可を得る。 六月十四日付で普門寺と加水寺合併
加水寺十世郁道和尚、普門寺十八世となる。

帯石観音堂再建

帯石観音旧本堂を「大悲閣」として再建

庫裏改築
 
  注 「加水寺」は江戸時代の普門寺の末寺。現在、普門寺は元加水寺の地(西安下庄)にある。
     「帯石観音」は旧普門寺の地にあって、明治からは普門寺の飛び地境内ということになる。

 宝物

 江戸時代の火災と明治維新の兵火(四境の役)により、普門寺の什物・世牌・宝物等は焼失した。
 現在、法華経八巻、弘法大師が護持された御剣法器が厳存されている。
 法華経は建武の中興のおり千種左中将源朝臣忠顕公が戦勝を祈願して奉納されたものである。

 紺紙に金泥で書写されており、三拝して一字を書写するといわれている。

  一巻末
    「於伯州船之上山東夷誅伏為海内
     静謐依
     天気書写之
           千種左中将源朝臣忠顕奉」

     (「伯耆の国ー鳥取県西部ーの船上山に於いて東国の武士を討ち滅ぼし国内を
       静かで穏やかにするために
       天皇のご意向によって之を書写する。
                千種左中将源朝臣忠顕 )

     
  

  普門寺に残る提灯箱。

  普門寺の紋は楠木正成家と同じ菊水。
  建武の中興との関わりが予想されるが、いわれを確かめる資料は焼失したのか、ない。


 「法華経」は八巻、二十八品の構成。
 上の部分は有名な観音経の偈。巻第八 二十五品」である。


   巻第八 巻末。

   「夫法華者如来出世之素懐衆生作佛之要路也  御願者以此功徳現世拂衆
於千里満諸願於一室當来滅無始之罪障菩提
    之妙果兼亦諸檀施主現世安穏後生善處自身現當二世大願令成就給事」

久留島主膳通方の墓碑
 
 普門寺ご開山西湖良景禅師墓碑 暦代住職墓碑                村上水軍の末裔 久留島通方の墓碑
 左に久留島主膳通方の墓碑                            
                                              
遭難

  寛文三年(一六六三)三月五日。豊後の国、森藩(大分県の玖珠町)から東方に向かう途中、沖家室沖で遭難。
  家臣ともども帯石の普門寺に葬られた。

  別府湾の「日出」から船出、沖家室沖で遭難した。

  関が原で西軍に味方しながら、豊後の森に一万四千石の地を与えられたのは、初代「康親」の妻の伯父の
  福島正則や既知の大阪商人の口入により、家康に仕えることになったからという。
  瀬戸内の「海賊衆」のなかで大名に取り立てられたのは久留嶋家だけである。

  森藩の初代藩主、「来島康親」は村上三島水軍(能島・因島・来島)の来島の村上家の六代目。
  能島の「村上武吉」と共に、毛利元就に味方し、宮島の陶氏を攻めた四代の「村上通康」の孫。
  通方は康親の孫。


通方の年齢

  森藩二代「久留嶋通春」の長男が「通清」であり、その弟の「通方」は五男。

  事故は、長男「通清」が藩主となって八年目のこと。
  「通方」について没年等の資料がなく、年齢が分からないが、兄(四男)の「通向(みちとお)」
  の年齢から推測して、遭難した寛文三年には「通方」は二十七歳以下となる。


帯石の墓碑の建立
 
  森藩八代の「久留嶋伊代の守通嘉(みちひろ)」が大阪より取り寄せて「通方」の墓碑の石碑を寄進している。(「注進案」)


久留嶋の子孫

  森藩は十二代で明治を迎える。玖珠町には子孫はいない。十四代の頭首が童話作家久留嶋武彦。子供の日の提唱者。
  玖珠町には「久留嶋武彦記念館」の他に「童話の館」もある。「こども映画祭」、五月の「日本童話祭」「童話の里夏祭り」
  等童話に関わるイ ベントがある。