四境戦跡の地                         
 慶応元年(1865)
十一月七日  第二次幕長戦争 幕府が諸藩に出兵命令を出す。
 
   同二年(1866)
         六月七日  幕府軍艦長崎丸、上関と安下庄を砲撃。
八日


九日 
幕府軍艦大江丸等、油宇、安下庄を砲撃。松山兵油宇に上陸。幕府軍艦富士山丸等四隻久賀に来襲、砲撃。
前島沖に停泊。
第二奇兵隊、泉福寺を出発、遠崎に到着。
十日  政事堂第二奇兵隊、浩武隊、丙寅丸の高杉晋作に出動命令。

普門寺には長州軍の守備隊(村上河内)が6日から本陣を置いていた
 
十一日 
幕府軍が大島総攻撃を開始。
大島は幕府軍に占領される
久賀に、幕府軍兵千、安下庄に松山兵千五百名上陸。
家屋千数百軒が焼かれる。 寺院は幕府軍の陣所となる。
久賀の大洲鉄然、山口の政事堂へ大島の急を知らせる
普門寺も幕府の支配下に置かれ、久賀と安下庄の幕府軍の連絡所となった。
大島の長州軍の守備隊は遠崎に退却。
 
十二日  高杉晋作、「丙寅丸」で、三田尻から上関に到着
第二奇兵隊の林半七と会談。
長州軍は毛利元就の命日の十四日を逆襲の日とする。
十三日  午前三時、高杉、「丙寅丸」にて「旭日丸」等久賀沖の幕府軍艦奇襲。
幕府方は薩摩の応援かと恐れた。
「丙寅丸」は下関へ帰る。
十五日 
十四日夜半、長州諸隊は笠佐島から大島郡へひそかに渡航し、
十五日未明より進軍し、久賀、帯石に向かう。
大島郡大島町屋代の西蓮寺が長州軍の本陣となる
         
屋代本陣から嵩山を中腹を進軍してきた、大島郡久賀町出身世良修蔵等の率いる第二奇兵隊、清水兵、大島郡兵が普門寺に進撃。幕軍不在。上山してきた久賀の幕軍二小隊を撃退して、引き上げる。
夕方、普門寺本堂・観音堂他庫裏・長屋・木小屋消失。火は松山軍によるか、長州軍によるか、両説がある。
 
十六日  岩観音清水峠、三石、源明、笛吹各峠の激戦の後、松山兵は退却する。この日は山上に野営。
               
 
十七日  長州軍は安下庄を制圧し、昼過ぎから、久賀に進軍。
久賀の幕府軍を包囲し、流田の本陣に追いつめる。
十九日
二十日
幕府の応援部隊が広島から来て久賀を襲い、掠奪、放火し、幕府軍は陣を引き払う。
幕府軍艦が前島から芸州口へ引き、大島は長州軍によって奪回された。

「四境の役」長州軍勝利の重要な一歩であった。

両軍からは多数の死傷者がでた。
                            
明治元年   
本堂、観音堂再建

大島口の戦いと「普門寺」
              
一 普門寺 加水寺 帯石観音
 「普門寺」とはどの寺をいうのか。日前帯石にあった「普門寺」は、明治四年に、末寺「加水寺」を吸収合併して、主たる寺務所を西安下庄長尾の加水寺の地に移す。「加水寺」は明治四年に無くなった。「帯石観音」というのは、最近の通称であって、明治維新の頃の史料には「帯石観音」という名称は無い。すべて「普門寺」である。
 大島口の戦いでは両寺とも陣所となっているが、結局、四境の役の時点では
 「普門寺」(日前 現帯石観音)
 「加水寺」(西安下庄 現普門寺)
ということになる。なお「普門寺」という寺は山口市にある他、各地に多い。
 以下、この稿の「普門寺」は全て日前の現帯石観音の旧「普門寺」のことである。

二 普門寺に来た諸兵 その一
   村上河内一手(大島の長州守備軍)

 慶應二年六月六日(一八六六 新暦七月十七日)、村上河内一手が大島郡代官斉藤一郎兵衛、大島郡一手軍監石川幹之助の命により屋代から日前の普門寺へ出陣している。日前口の防御が一手の担当である。
 村上河内は村上有信。旧東和町和田の曹洞宗正岩寺を菩提寺とする。ちなみに、正岩寺は、維新の時点では照岩寺、開基は村上武吉の二男景親である。景親は、昨今噂の「村上海賊の娘」の弟。
 十一日午後、安下庄は方向も分からぬほど火災の煙りに包まれていた。やや、煙の治まった夕方、村上河内一手は安下庄の松山軍を攻撃する。やがて松山兵は乗船したので、久賀能庄に行く。久賀も幕軍が上陸し、長州軍に戦死者もでる戦いの中で、村は焼かれている。護国団の大洲鐵然も山口に向かい、斉藤代官、石川軍監も遠崎に引き、その布告により、村上一手も翌朝、遠崎へ渡る。遠崎に渡ると林半七から、
「どこの兵か。戦いをしていないのではないか。」
と聞かれ、右の事を釈明している。この時、兵を温存した村上河内一手等大島守備隊は、十六日、十七日、幕軍と対決する。

三 普門寺に来た諸兵 その二
   幕府陸軍 松山歩兵大島(占領幕軍)

 九日、久賀沖前島の幕府軍河野伊予の守歩兵奉行の宿陣において、松山藩の使者も交え、大島侵攻の作戦が練られる。(幕艦富士山丸艦長の「長州征伐日記」)
 そこで、松山軍が安下庄へ、幕府陸軍が久賀へ上陸進撃し、占拠の後、挟み撃ちで普門寺に向かうことを約束している。幕府軍は、大島を占領し、岩国に攻め上る筋書きを持っていた。
 作戦通り、十一日に久賀と安下庄に進撃したが、夕刻となったので、普門寺に押し寄せるのは、翌十二日となった。
 十二日午前五時、菅五郎左衛門率いる松山藩軍は安下庄から普門寺へ向かう。しかし、普門寺の住職が居るだけで、長州兵は見当たらない。村上一手はすでに遠崎に引いている。普門寺の座敷は仕切られて「壱番隊・弐番隊」という張り紙や刀懸け等が有った。 そこへ久賀からの幕府陸軍が到着する。
 幕府陸軍は久賀から山手本道と間道の二手に分かれて押し寄せる。幕府軍は十四代将軍徳川家茂のお膝元紀州藩の陸軍である。山手本道からは河野伊予の守通俰歩兵奉行、戸田肥後の守勝弥歩兵頭、山角磯之助騎兵頭、徳山剛太郎歩兵頭等幕臣の率いる歩兵一大隊、大砲隊、騎兵一小隊。間道からは城織部歩兵頭率いる一大隊。
 本陣攻撃かと思わせる進軍である。久賀からの動きは幕臣由利元十郎の日記によるものだが、日記の次の記述は印象に残る。立場も状況も越えて大島の自然は人の心を打つようである。
「山道険阻ながら東の方島々見渡され絶  景なること厳島・近江八景も及ばず、一 里半余登りて普門寺へ着」
 両軍とも午後三時にそれぞれ久賀、安下庄に帰陣。この日幕府軍は阿弥陀寺に本陣を移している。

 高杉晋作が丙寅丸で久賀沖の幕艦を奇襲したのは、この十二日の夜である。
 六月七日、小倉からの帰途の長崎丸が上関、安下庄を砲撃する。八日には富士山丸他幕艦が久賀に襲来し、松山兵は大江丸等によって由宇に上陸する。
 六月十日、山口政治堂は、南奇兵隊、浩武隊の大島口への出兵と馬間港海軍総督高杉晋作の支援を命じている。
高杉は、敵の目をくらます為、日本船の旗を付けず、十一日夕刻室津に付く。大島守備軍の遠崎撤退の状況に怒り、大島の土地や海に詳しい者を乗せて、翌日の夜、久賀の幕艦を攻撃する。
 高杉の丙寅丸はわずか九十トン余り。高杉が奇襲した時は安下庄湾にいた富士山丸は千トン、久賀沖に停泊していた旭日丸は750トン、八雲丸は300トン。その奇襲は無謀な行動とも指摘されるが、幕府軍艦についての木戸孝允からの情報に基づく機敏な行動であった。(「幕長戦争における高杉晋作の幕府軍艦奇襲の背景」三宅紹宣山口県地方史研究110号参照)
 旭日丸に損傷を与えた丙寅丸は、応援の軍艦も無いので、すぐに引き返す。十四日には三田尻に帰着。高杉晋作は小倉口に向かう。丙寅丸が幕府軍に与えた衝撃は、そのまま長州軍への激励になっている。

四 普門寺に来た諸兵 その三
  第二奇兵隊、清水一小隊、
   大島郡一小隊 ( 長州反撃軍)

 元就公厳島戦勝利の記念日の十四日渡海し、屋代西蓮寺を本陣とした第二奇兵隊の攻撃目標は、「敵兵籠もり居り」という情報のある普門寺であった。普門寺は久賀と安下庄を繋ぐ山手本道の中間に位置する。
 慶應二年六月十五日(一八六六 新暦七月二十六日)、午後、林半七、世羅修蔵率いる第二奇兵隊、清水一小隊、大島郡一小隊が、笛吹き峠から嵩山中腹の北側の道を通って普門寺に押し寄せる。
 浩武隊は久賀の畑に当たり、敵兵に会わず帰陣している。
 村上河内、亀之助の二手と浦滋之助勢、村上太左衛門、平岡、飯田各部隊、日前狙撃隊は椋野に向い、国木峠、庄地、畑で昼から午後四時頃まで烈しく戦っている。
 一方、普門寺に来た第二奇兵隊。明治になって子爵となる林半七の後日談話によると(「防長回転史」)普門寺の幕兵は、松山軍との連絡のため、寺僧に浴場の準備を命令して安下庄に下山していたという。
 普門寺に幕府軍の一手が駐屯したという史料は見当たらず、浴場準備云々の事も、当日久賀を出発した幕府一隊が、普門寺に立ち寄って、そう命じたとも考えられる。常駐する一隊と普門寺で合流したという記述も無い。
 長州軍は普門寺境内の石燈の上の石垣に伏して敵を待つ。
 一方、久賀を占拠する幕府軍の布河政五郎は、(「布河政五郎戦争日記」)河野伊予の守、戸田肥州の命により、長州軍が普門寺に向かう十五日朝六時頃久賀の豎町(たてまち・幕軍の本陣阿弥陀寺がある)を出発、九時に安下庄に到着。松山家家老菅五郎左衛門と面会し、明十六日、小松表へ出陣し当地で出合うこと、島内は特に変わった様子はないこと等を打ち合わせる。安下庄の炊き出し所、中司與兵衛宅を借り休息、十二時頃安下庄を出発して帰路に付く。
 この幕府側の判断には、普門寺に兵を置かなかった事も含めて情報不足からの油断があった。前日の長州軍の渡海が、作戦通り幕府側に知られることなく実行されたことの証である。「撤兵隊(幕軍)、同所(安下庄)へ相越し、帰り掛け普門寺越しにて敵兵の誘打に逢い候ふ趣申し出」(「松山叢談」)という予期せぬ事態となる。
 幕府撤兵隊が久賀へ帰る途中、普門寺右手の山中に銃を持って花色の胴服を着た兵が、二人、松の樹間からちらちら見える。再三の合い言葉に答がない。兵を止め普門寺の方を見ると境内に人が多い。上下白、中が赤の洋風の小旗も三、四本建ててある。敵が有るとも思わず、ラッパを吹かせたところ、石垣の陰から発砲してきた。直ちに応戦する。普門寺左手の林や坂道から長州兵が攻めかかり、幕軍は安下庄への道の中程まで後退する。「敵味方の間青田を隔てて一丁(約百m)程」。
 林半七の談話では「(幕兵は)播州々々と呼ぶ。蓋し隠語なり。急に之を撃つ。臼砲を放ち功あり。敵兵潰走す。追うこと暫時にして止」とある。深追いはしない。
 幕府軍の方は、弾薬も切れ、日前村よりも敵兵が二、三十人も追って来、塩宇村まで引く。民家に集合して休息し、松山の家老菅五郎左衛門に注進。午後四時、安下庄に帰り、久賀へも注進の早舟を出す。
ここで幕軍の弾薬を運んでいた人夫が殺され弾薬箱が無くなるという事件が起こり、塩宇村の百姓三人、長蔵二十三歳、利七三十六歳、直二郎四十一歳が疑いを懸けられて生け捕りにされている。
 午後七時松山大砲隊に小隊を付けて普門寺へ差し向ける。同じ頃久賀からの使者四人が到着し、道中は無事であることを告げる。この夜松山軍は夜襲に備えるが、長州軍はすでに屋代本陣へ引き上げている。
この時の普門寺住職は十七世禅海得龍和尚。八代村出身、同所の清水卯八兄。明治五年、安下庄普門寺で遷化している。六十一歳。墓石は帯石にある。
 この日普門寺が焼失する。放火をしたのはいずれの軍か両説ある。
幕府軍が焼いたという史料
①第二奇兵隊出陣日記
 「其の夜、暮れ六(午後八時頃)賊兵普  門寺へ登り彼の寺を放火致し、安下庄  普門寺両所にて野陣致し候ふ由」
焼いた後、普門寺にも兵を置いたとある。
②隊長の林半七後日談
 「我が兵退く後、敵兵普門寺を焼く」
③山口藩廰記録
 「南奇兵隊、浩武隊、大野の兵は奥山観  音越えより普門寺へ押し寄せ、一戦に  て賊兵を追い払い乗っ取る所、場所宜  しからずにつき八代へ引き取り候ふ。  その跡より賊兵来たりて普門寺を焼き  払う。」
長州軍が焼いたという史料
④毛利家文書「大島郡賊船襲来日記」
 「賊兵普門寺に居り候ふ処、奇兵隊普門  寺へ押し寄せ、賊と烈しく相戦い、賊  兵追い払い、亦は隠れ居る候ふ賊兵之  有るに付き、同暮れ時普門寺焼失の事」
⑤幕府軍 布河政五郎日記 
 「夜十時頃敵兵来て放火し同寺を焼く。  この時松山勢の内より士分三人同所へ  至り見届け来る。同時安下庄民舎十軒  程焼失。これ又、敵兵来て放火す。」  
 賊兵が隠れていると疑われ普門寺は焼けたという話は、④であるが、長州、幕府両者の記録から見て、事実誤認がある。
③も出陣の隊に、各隊の報告と違う部分がある。 結局放火は幕府側か長州か、真相は分からない。
 【日前村普門寺の焼失状況】
一 本堂壱宇   
一 庫裡壱軒
一 観音堂一宇
一 長屋壱軒
一 木固屋一軒 (「槇村正直蔵書雑載」)
五 普門寺に来た諸兵 その四
  松山二の手 (源明決戦の幕軍)

 六月十六日、長沼吉兵衛侍大将率いる松山軍二の手は、日前「普門寺」を経由して屋代に向かっている。松山軍総数は千人を超えているので、何百人もの軍勢が、「普門寺」から岩屋権現に向かう天狗岩を通る道を登っていったと想像される。
 この隊は嘉納山頂の南、三石で、長州軍の浩武隊・第二奇兵隊と遭遇する。この戦闘で両軍とも戦死者をだしているが、松山軍の戦死者、士分三人の内の一人、来宮伝右衛門(三十五歳)を追討する伝記によると隊は「普門寺」辺で昼食をとっている。
「普門寺てふ寺のかたへにて午餉し未刻ばかりより砲戦はじまりたるよし」
           (「松山叢談」)

おわりに   槍は黙して語らず
この兵火によって帯石観音堂の三尊佛、千手観音(木佛立像長ケ貳尺)、不動明王(同壱尺八寸)、毘沙門天(同断)も焼失した。
 
 元加水寺の本堂(平成十三年改築)に「お納経」という部屋があり、その壁の上部に、槍が一本掛けてあった。その槍は今もある。しかし、誰の手にあったのか、どんな歴史を見たのか、槍は黙して語らない。
     (平成二十六年九月)