「これはまさに捨てるべき罪悪のものなり、
                        仮に名づけて身となす」

            「身は老病生死の海に浮き沈みしている、智慧に目覚めたものは、この身を亡ぼすことは
            長年の怨みある敵をやっつけるようなもので、喜ぶべきことなのだ」
             「仏遺教経」の終わりの方に、以上の言葉がある。生死に苦しむことはない、修行し、解脱し
            安楽にあれという、死を迎えた八十歳の釈迦の教えである。
    
            法隆寺の玉虫厨子の絵で有名な「捨身聞偈」の話を思い出す。
            一人の修行者が不思議な声を谷底に聞く、
            
              「諸行無常
(しょぎょうむじょう) 今はなく一切のものは移り変わる
              是生滅法
(ぜしょうめっほう) これは生じたものは滅するという法則だ」
        
            それは悪魔の姿をした羅刹の声であった。後半の二句は、修行者がその身を羅刹の餌食
            にすると約束すれば、教えてくれるという。修行者は喜んで約束する。
      
              「生滅滅已
(しょうめつめつい)  生滅へのとらわれを滅し尽くして
               寂滅為楽
(じゃくめついらく)  寂滅を安楽とする」
             修行者は、この句を聞いて、長年の問が解け、谷底に飛びおりる。すると羅刹は帝釈天の
             姿に戻って空中に修行者をささえる。修行者は雪山童子、実は修業時代の前世の釈尊で
             あった。冒頭の「遺教経」の言葉の意味は「寂滅為楽」である。 
             
             「法身・報身・応身」 (ほっしん・ほうじん・おうじん)という仏の三身。
             

              「法身」は形のない仏の真理そのもの。 広大無辺で且つ量子の微細な世界まであるこの世の
             不思議そのもの。分子生物学者村上和雄さんのいう「something great(なにかとんでもないいだ
             いなもの)」。イエスやマホメッドや孔子や老子や釈迦等々をこの世に出現させた不思議なもの。
              「応身」は救う対象に応じて姿を現した仏、即ち、歴史的存在としての釈尊。上の言葉は無常な
             応身としての釈尊のことば。
              「報身」は、阿弥陀如来、観音菩薩、地蔵菩薩のように願いや修行の報いによって姿を現された
             仏様で、「法身」が抽象的で人格がなく、「応身」が人格があるが無常であるのに対して、「報身」
             は、人格的な姿が見え、且つ真理のように永遠な仏様。
                  (「仏遺教経」 中村元「仏教語大辞典」)